PAマンのひとりごと
vol.01 はじめまして小野です

はじめまして。PAマンの小野良行です。私は長年、ヒビノのPAとしてコンサートの音響の仕事に携わっています。昨今、テレビ番組などで裏方の仕事が紹介されることが増えた影響もあってか、「コンサートの裏側はどうなっているの?」という質問をいただく機会も増えてきました。そこで私のこれまでの経験を通して、「PAマンとはどんなことをしているのか」「PAの仕事の魅力」などについてこのコラムで紹介していきたいと思います。音楽好き、ライブ好きの皆さんに音楽の現場をもっと身近に感じてもらい、ライブをより楽しんでもらうきっかけになれたら、うれしいです。



自分の音楽を広げてくれた米軍基地の子どもたちとの出会い

まず第一回目のコラムでは、自己紹介をしますね。

私は父親の仕事の関係で埼玉にあるキャンプ・ドレイク(旧米軍朝霞キャンプ)のそばに住んでいました。中学生で同級生たちと初めてバンドを始めたのですが、キャンプ・ドレイクにいる子どもたちもロックをやっている少年が多かったんです。自然と顔見知りになり、「遊びに来ないか?」と誘われ、彼らの家をたびたび訪れた。部屋に行くと、LPレコードが裸でバーッと積んであって。自分たちが欲しかったアルバムばかりで、よだれが出るくらいうらやましかったな (笑)。中学生だからつたない英語しかしゃべれなかったと思いますが、子ども同士で「とにかく音楽が好き」という共通点があったので、自然に仲良くなれたんでしょう。

毎週金曜日にはキャンプ・ドレイクの中でパーティーが行われていて、僕らのバンドも出演させてもらいました。もちろん中学生だからギャラは支払われませんが、日本にはないような大きなコーラやフライドポテトをもらったりして。振り返ってみると、この頃から音楽仲間ができはじめて、多様な人たちと一緒にやることの面白さを知ったんだと思います。

音楽の裏方の仕事と出会ったのは高校生のとき。新宿のライブハウスや音楽喫茶にも顔を出すようになって、音楽仲間が増えていきました。そうすると連絡網ができて「今度こんな海外のアーティストを招聘するよ。手伝いに来ない?」と声をかけてもらうようになったんです。ちなみに下はイングランドのハードロック・バンドUFOが来日したときの写真。アーティストを迎えに行くなど、いろいろな雑用をやらせてもらった覚えがあります。ただ、このときはまだ自分が音響として音楽の仕事に携わることになるとは、夢にも思っていませんでした。


右から2人目が私、小野です。私の裏方人生はこの時代から始まったのかもしれません。


「こんな楽しいことができるの?」
衝撃だったPAという仕事との出会い

私がPAマンになるきっかけを作ってくれたのは、ヒビノに就職した大学の先輩。アルバイトに誘ってくれて、大学3年からスタッフとして働くようにもなりました。初めて行った現場は、エリック・クラプトンの日本武道館公演です。自分にとって音楽の神様みたいな存在の人のコンサートが初仕事だったので、運命的なものを感じました。最初はステージの解体作業やケーブル巻きなどの雑用をやっていたんですけれどね。


日本の音楽史上における伝説のコンサート「箱根アフロディーテ」でヒビノのPAの歴史が始まった(1971年)

でも先輩たちがやっている音響の仕事を見ていたら、とても興味がわいてきて。PAという仕事も知らなかったし、自分の好きなジャンルの音楽に関われて、かつお金がもらえるということに大きな衝撃を受けた。「こんな楽しいことができるの?」って(笑)。もちろん仕事は朝早くて夜遅いなど、キツイところはたくさんありますよ。でも、それに勝るものがあった。

バンドをやるのはもちろん楽しいけど、それよりもアーティストに対して音を作ることが、すごくワクワクした。ある意味、ミュージシャンに対して同等になれる仕事だと直感的に思ったんです。



忘れられないジェフ・ベックとの仕事

ヒビノがPA事業を始めたきっかけは、1970年の大阪万博で行われたライブコンサートで使用されていた、アメリカSHURE社の音響機材に注目したことです。その品質の高さにほれ込み「これは国内のコンサートや舞台の音響装置として売り込める!」と考え、国内販売代理業務を開始。ただ当時は、1ドル=360円の時代で売るのは非常に難しかった。そこで品質の良さを知ってもらうために音楽関係者に向けてデモンストレーションを行い、機材のセッティングやオペレートまでサービスしました。

ねらい通り、自分専用に購入したいという希望者が現れ、口コミで評判が広がっていきました。そのうちに「購入するのは無理だけれど、貸してほしい」という問い合わせが来るようになり、レンタルサービスを始めるようになり。機材のレンタルに加えて、セッティングとオペレーションを組み合わせたPA事業部が設立されました。


SHUREボーカルマスターのデモンストレーション(1970年)

それと同時に、海外のアーティストが日本でコンサートを行う時、機材を持ってくるのはお金がかかってしまうので、「日本でレンタルしたい」という要望がありました。そこでヒビノが機材を貸し出すように。エンジニアは海外から来ますが、ヒビノのスタッフが彼らのオペレートを横でサポートしていくわけです。ツアーに同行すれば毎日作業を見ることになり、次第にスキルがついてくる。そうすると自然に「面白そう! 自分たちもやってみたい!」と考えるようになって。当社の先輩社員はそうやってPAの仕事をものにしていったそうです。

私がアルバイトとして入社したのは1974年ごろ。すでにヒビノの中でもPAの仕事は確立していたので、先輩たちの仕事ぶりを見て、一つずつ覚えていきました。

PAとして駆け出しのころ思い出深いのは、ジェフ・ベックのツアーに同行した時のこと。FOHエンジニアはもちろん海外の人でしたが、予算の都合でモニターマンが来ていなかった。それでヒビノから人を出すことになって、私が担当することになりました。もちろん通訳はつきますが、音楽のことなので、言葉が分からなくても言いたいことは伝わってくる。「それはもうちょっと上げろ」とか「下げろ」とか。「もっと音を固くして」といったリクエストが飛んできて。もともと私はギター少年だったので、ジェフ・ベックはエリック・クラプトンと同様に神様のような存在でした。作業自体はそんなに難しいことはしませんでしたが、彼のサポートをできたのは、やはりすごくエキサイティングなできごとでしたね。

※PA:「Public Address」の略で、「大衆伝達」の意。その役割は、音声や音楽を、音質および音量を調整し、スピーカーから聴衆に向けて伝達すること
※PAマン(PAエンジニア):電気音響設備を用いてPAを行う技術者
※ステージマン:ステージ上のマイクやスピーカーといった音響機器のセッティングを担当
※モニターマン(モニターエンジニア、モニターミキサー):ミキサー卓に座り、モニタースピーカーという演奏者のためのスピーカーのミキシングを担当
※FOHエンジニア(ハウスエンジニア、ハウスミキサー):FRONT OF HOUSEの略。ハウスとは劇場の意味。アーティストなどと共同で音づくりをし、観客のために音を仕上げる最高責任者

 

第一回目の連載コラム、いかがでしたか? 今回は私自身がPAになったきっかけや思い出などをお話ししました。今後も、PAマンのリアルな思いをつづっていきたいと思いますので、お付き合いください。


次回はPAの仕事の中身について、ご紹介したいと思います。

■PAマンのひとりごと
vol.01 はじめまして小野です
vol.02 音づくりの現場から
vol.03 街の劇場ホールが私たちの職場
vol.04 音づくりの基本「建築音響」との出会い


小野 良行 ヒビノ株式会社 サウンドシステムデザイナー

1976年にヒビノ電気音響株式会社(現ヒビノ株式会社)入社。
コンサート音響部門に所属し、数々の海外アーティストを手がけ、国内アーティストのツアーにも多数参加。ライブのサウンドエンジニアとして、56アーティストのチーフエンジニアを担当するなど活躍。現在は、大規模なイベントプロジェクトの音響を受け持ちながら、後任の育成などを担当している。